市高、音楽、オケ、ホルン

12回生 平田哲正 記

会社員 兵庫県姫路市在住 

第10回の記念定演について何か書け、ということで、過去の記憶を辿りながら考えた。

私(12回生)は総合選抜の2期生。区域外の鳴門市からの受験で、市高は意識の中でも物理的にも最も遠い存在であった。サイコロの結果が市高であると判った時、運の悪さに一瞬絶句したものである。中学まで野球少年であった私(川人先生はエースで4番だったとか、私はショートで2番)は、高校に入って野球を続けるかどうか迷っていたが、市高に入ると決まって、通学時間が1時間半近くかかることから、体力的に無理だと思い野球はあきらめることにした。クラブ活動は何かやりたかったので、当時大学のブラスバンドでホルンを吹いてた6歳上の兄が、就職したら新しい楽器を買うから自分の使っているホルンを1年後に「やる」というので、今まで全く楽器の経験はないが音楽好きだった私はオーケストラ部に入ることにした。ちなみにこの約束は果たされず、可哀想に思った親が私が2年生の時に楽器を買ってくれた。

この兄(昭和26年生まれ、現在市高の顧問である石井先生と同年であったと記憶している)は大学、社会人とずっとホルンを続け、数年前に事故で亡くなるまで横浜交響楽団(アマチュア)でホルンを吹いていた。高校時代は鳴門高校のブラスバンドでホルンを吹いていたので、石井先生とはちょっとしたライバル関係であったかも知れない。石井先生、ご記憶にありますか?

このちょっとした不運(と最初は思っていた)が、川人先生をはじめ色んな人と出会えるところとなり、卒業するときには、本当に市高にきて良かったと思うようになるのだから人生何が幸いするかわからない。ピンチをチャンスに…とはよく言われることだが、私にそんな考えは全くなかったが、流れにまかせてクヨクヨしなかったことが良かったのだろう。

市高時代の思い出としては、2年生の時に部長を仰せつかりながら、ちょっとした不祥事を起こして、一週間停学を喰らったのが最大の思い出(痛恨事)である。その時の川人先生の態度を思い出してみると、特に怒られることもなく「へーっ!!」という顔で「おまえでもそんなことするん?」という何か楽しげな顔をされたように思う。単にあきれ返られただけかもしれないが…。また、コンクールの打ち上げだったかで、人生で初めて大酒を飲んだ私は人事不省になり、知らぬ間に武市先輩(Cl.10回生)の家で寝かされていたことも思い出す。

いまさらではあるが、昭和49年度の関係者には大変な迷惑をおかけした。この場を借りて再度お詫びしたい。

もうひとつ。ふとしたきっかけで、万歳三唱の音頭取りをやることがあり、これがなぜか好評(?)で、O.B.になってからも2,3年は、打ち上げとかの「万歳係」をやらされたように記憶している。

 話を先に進めると、私は大学進学後もホルンを続け、大学にオケがなかったのでブラスバンドと市民オーケストラで吹いていた。大学のブラスバンドは私の入学時は小学校の鼓笛隊レベルであったが、なぜか同級に私を含めホルンが3人(全て男)もおり、揃って酒好きで3バカトリオを称され、飲んで騒いでの学生時代であった(彼らとの交流は今でも続いている)。大学のブラバンは上手ではなかった(初心者も結構多かった)が、音楽そのものが好きで熱心な先輩が多く、私が2年の時に第1回の定演を開こうということになり、非常に苦労して何とか開催までこぎつけた。広告取りなど市高の経験が生きたと思う。3年の時には学生指揮者もやっていたようで(大学ブラバンのHPを見て思い出した)下手なりに充実した面白いクラブであった。

市民オケの方では、定期演奏会ではプロの指揮者を呼んで、本格的なシンフォニー等を演奏することが出来、クラシック音楽の面白さを発見することが出来た。「第9」をやった時の苦しさと充実感は今でも昨日のことのように思い出す。

ちなみに、この市民オケで当時中学→高校生でバイオリンを弾いていた篠崎フミノリ氏が、N饗のコンサートマスターの一人になっている。これをテレビで2,3年前に偶然見かけて非常に驚いた。当時から「メンコン」か何かを演奏会でやるだけの腕前はあり、毎日コンクールで結構良い賞をもらったと聞いていたので、プロになるんだろうなとは思っていた。しかし、口から先に生まれたようなキャピキャピの子供だった彼が、20何年ぶりかでテレビで見ると、能面のような顔で厳粛にN饗のコンマスをこなしているのである。このギャップが何ともいえず不思議であった。

さて、本題の第10回定演の話も少しはしなければならない。私はO.B.一年生として出演したはずである。演目を見ると「ドボ8」etc。どんな演奏会だったかは全く記憶にない(当時の部長の南東さんか誰かに語っていただくのがふさわしい)が、大学の先輩が四国バイク旅行で我が家に立ち寄るついでに、市高の演奏会を聞いてくれて、えらく感動してくれたことを覚えている。市高オケにとって当たり前のことが、部外者には特別なことに感じられるのだな、私は他人がうらやむような素晴らしい時を市高で過ごせた、と改めて感じた。 

話は変わるが、大学時代に「カバレリアルスティカーナ」…最近『間奏曲』をコマーシャルでよく聞く…を合唱組曲風にアレンジした演奏会のオケ伴奏をやったことがある。オケ/ホルンとしてはどうという事の無い曲だが、合唱の素晴らしさ・人間の声の素晴らしさに感動し、オケ単独の曲とは別の意味で一生懸命演奏したことを覚えている。

市高の定演では第10回定演の「筑後川」や数回に渡って継続された「オーケストラと歌おう」等、「合唱+オケ」を川人先生は好んで選択されている。高校の時には自分のことで一生懸命だったせいか、人の声と器楽が融合した時のすばらしさを感じることが出来なかったが、カバレリア…をやって初めて先生の表現したかったことがおぼろげながら分かった気がした。

社会人になってから遠ざかっていたホルンに、去年から私は再び接するようになり、小さなオーケストラでホルンを吹いている。40歳を超えてホルンを再開した理由の一つは上の子供が中学生になった時に、兄が私に言ったのと同じ文句で子供を釣ると、素直に言うことを聞き、ホルンを吹き始めたことであり、二つ目はホルンの先輩でもあった兄が亡くなったことであるが、決定的な理由は同窓生が唐突に送ってくれた海賊版の『A.Riverman』である。不思議なことに、このCDを聞く前夜に、私は大阪フィルの「チャイコの5番」を聞いている。ホールのせいもあったがぱっとしない演奏で、A.Rivermanの「悲愴」に圧倒的な感動を覚え、市高オケの「一球入魂」的素晴らしさを感じた。ただし、これを聞いた時は、同窓生(通称”ゴリさん”あるいは”uncle lerele”)がなぜ私にこのCDを送ってくれたのか、全く事情を知らなかった。《川人昭夫メモリアル》のサブタイトルにいやな予感が走り、同窓生に電話して初めて事の次第を知った…。

さらに余談が続くが、私の入ったオーケストラには徳島文理大学で川人伸二さんにフルートを教わった方がおり、昭夫先生をはじめ市高オケO.B.の何人かもご存知で、その奥様は市高オケのO.G.。ちょっと出来過ぎではなかろうか?、

因果なことに下の子供もホルンを始め(ブラバン入部は本人の意志だが、ホルンは偶然。私はオーボエをやらせたかったのだが…)、中2♀/高1♂の子供が二人とも(私を入れると家族の3/4が)ホルンを吹いている。子供に教えることは喧嘩になるのであまりやらないが、ホルンが共通の話題となることはたまにある。上の子供はそろそろオケに引っ張り込もうと思っている。私の生活が仕事漬けの毎日であることに変わりは無いが、心の豊かさが以前と違うように思う。

最後に、私の宝物を紹介する。川人先生から頂いた修了証書である。

修了証書

ホルン 平田 哲正殿

あなたは3ヶ年オーケストラ部のリーダーとして低音とあのニヒルな微笑をもって部をひきいて来ました。金管独特の興奮しやすい性格は伝統そのものと申せましょうが、物静かなあなたが突如として一喝するあの効果は相当なものでありました。

喜びを表面に出さないあなたが見せたコンクール優勝の時の狂乱ぶりは驚きに耐えません。あの異様な響きで発した「万歳」のひと言を終生忘れることが出来ないでしょう。ホルンのあの輝かしい音や馬力に似合わない純情さを持っていますがつつましい行動力が更に発揮出来るよう祈っています。

昭和五十一年 三月九日

徳島市立高校

管弦楽部

顧問 川人昭夫